決意 ~鬱病と自閉症スペクトラム~

ストロム

 この世界には人間と獣人が居る。見た目や能力に差はあれども、対等な関係で共存している……というのは表向きのこの世界だ。実際は、獣人が人間に虐げられてるのがこの世界だ。 「こんな事も出来ないのか。所詮、人間様の頭には及ばない獣だな」 「そこに立っているだけで気持ち悪い半獣が」 「何で獣人なんてこの世に居るんだろうな? 自分が神様だったら真っ先に獣人なんて存在を消してやるのにさ」  人間と獣人は共に在るべき存在だと謳っているくせに、実際は獣人に対する罵倒や暴力、種族差別に溢れている。この腐敗している世界で生きていく事は耐えられないものだった。  そして、何の前触れのなく、その日が来た。 「……何で……」  その時は何かされた訳じゃない。だが、涙が止め処なく流れていた。人間達が多く居る、この鉄筋のビルの中で。多くの人間が見ている前で。そこでとても冷めた感情が込められた声が放たれる。 「たかが半獣の分際でいっちょ前に泣きやがって、情けなくて見てらんねぇな」  その声を皮切りに、他の人間も冷めた声を出す。 「そもそも半獣ごときが人間様の領域に入ってくるなんて邪魔」 「獣人が人間と同じ扱いされるだけで気持ち悪い」  温かさなんて皆無。こんな冷たい世界に何で居るんだろう。何で……今ここで生きてるんだろう。この時、絶望に打ちひしがれていた。だが、それに追い打ちをかけたのもまた人間だった。 「……この時をもって、君はこの会社を退社してもらう」  クビになった。それなのに、もう何も感じなくなっていた。作業的に書類にサインをして、その会社にあった自分の荷物だけ持って、そのビルを出た。その後、どうやって家に帰ったかも覚えていない。記憶が曖昧だ。  そこからただただ、時間だけが過ぎていった。何をする気も起きない。ただ、そこに在るだけ。携帯電話のバイブがいつまでもバイブが鳴っているが、それを取る気さえもう残されていなかった。そんな日が何日も何日も過ぎた。もう、何もかもどうでも良かった。 「これまで充分、頑張ったんだよ。だから、今はもう頑張らなくて良いんだよ」  意識が朦朧としている中、突如、声が耳に入る。懐かしいと思う高い声、でも何処か遠くに行ってしまうような声。その声が聞こえたと思ったら、頭に感触を覚える。この感触は、撫でられているものだった。長く感じていなかった感触。疲弊したこの心を掬い上げてくれるのか? その声は俺にとっては、わずかな希望になった。俺はその声に引かれていった。

 会社を退社させられて半月。俺は地元の両親の家で生活を始めた。それまで一人暮らししていたアパートは引き払っていた。もちろん、俺の両親は獣人だ。地元は獣人の集落になっているため、人間も居ない。種族差別など縁遠い場所だ。俺の心を休めるには良い環境だった。  俺の両親は憔悴しきっていた俺を受け入れてくれていた。地元に帰ったばかりの俺は本当に酷いものだった。情緒不安定になっていて、不意に泣いたり怒ったりと常に落ち着かないものだった。一人になると余計な事を考えてしまい、睡眠もまともに取れず、2~3時間寝れたら良い方だ。それに何をするにも無気力で、電車とかの交通機関を利用していると過呼吸になったり、震えが止まらなかったりと何か行動をする度につらかった。  俺は鬱病に陥っていた。会社が産業医として紹介してくれた人が人間でありながらも、腕の良い獣人が主治医の病院を紹介してくれ、そこに通院してその結果が出た。更には、自閉症スペクトラムも併発していると診断された。コミュニケーション能力の欠落、抽象的表現に対する理解の欠落、刺激に対して過敏に反応する発達障害だ。両親曰く、幼い頃からその兆しはあったらしい。俺は性格上の問題だとずっと思っていた。両親もこの診察に同行し、俺の状態を理解してくれている。両親には感謝してもしきれないくらいだ。俺は病院で処方されている獣人用の精神安定剤、睡眠剤、その2つの薬の副作用を抑えるための薬を飲んでいた。人間用だと獣人には効果が薄いようで、改善するには少々強めの薬を飲んでいかない事を医師に聞かされた。副作用を抑える薬も一緒に飲んでも気持ち悪くなったり、強い眠気に襲われる事もあるという事もその時に。 「焦らず、ゆっくりやっていきましょう。あなたには理解していただいているご両親がいらっしゃいます」  一緒に居た両親は微笑みかけてくれた。 「すぐ働こうと思わなくて良い。勇悟(ゆうご)に合う職場に入れるように、何より勇悟自身が元気になってくれる事が親として幸せな事だからな」  そう声をかけてくれる。俺はこんな両親を持てて良かったと思う。気づけばまた涙を流していた。

 実家に戻って二ヶ月ほど経った頃だ。両親に支えられながら、カウンセリング療法や服薬療法を続けて、日常生活が出来るまでに回復していた。ウォーキングや図書館に通って本を読むような習慣をつけていた。学生の頃に本を読むのが好きになった俺はしばしば小説を読み漁っていた。ただ、獣人は体を動かす人が多く、読書をする獣人が少なかったため、陰キャだ、人間みたいだとからかわれていた事も少なくなかった。獣人にも人間にもなりきれない自分に自己嫌悪をする自分が居た。そんな過去も、鬱病の発症の要因にもなるというのも医師から教わった。でも、俺は読書が好きになった事に後悔はしていないし、これも自分の一部だと思っていた。  そんな時期に親父の兄、つまり伯父に会う機会があった。俺の今の状態について、一部の親族には伝えていたようで、伯父夫婦はその事情を知っていた。一緒に食事しないかと誘いが親父にあったようで、おふくろと俺も連れてきてくれとの事だった。連れてこられた場所は一見さんお断りの料亭のようなお店で、和を基調とした畳の個室に案内された。それぞれの席の座布団の上に座る。正直、伯父は俺にとって苦手な人だ。獣人ながらも頭脳明晰な人で教師として勤めている。堅物でこうと決めたら納得いくまで行動を止めない人だ。その伯父に宿る何もかも見透かされそうな灰色の瞳を見れず、俺はあまり視線を合わせられない。そんな俺を真っ直ぐ見据えて口を開く。 「勇悟君」 「は、はい……」  俺は震えながら顔を伯父に向ける。あまり表情が変わらない伯父はそんな様子を知ってか、知らないでかそのまま話を始める。 「今、勇悟君は親に迷惑かけないようにと仕事を探しているような顔つきだね。だが、やっている事は今の時点では裏目に出る。焦って探したところでぶり返す結果になる」  驚いた。親にも言ってないはずの事を暴いた。俺の顔が歪んでいただろう、両親もそれが図星だと気づいただろう。両親も驚きを隠せずに俺に詰め寄る。 「勇悟、ゆっくりやっていこうって医師(せんせい)にも……!」 「そうよ、私達の事は気にしないで勇悟のペースで良いって……!」 「確かにそうだけどよ……立ち止まってばっかって訳にもいかねぇだろ! ただでさえ迷惑かけてんのに以上俺が居る事で負担かけられねぇよ!」  思わず声を荒げてしまう。俺がそう思っていても両親はそんな事ないと笑って受け入れてくれる人達だって知ってる。でも、その優しさが逆につらい時もあった。その優しさに甘えてしまっている堕落した寄生虫じゃないかと自己嫌悪に陥ってしまう。両親が反論しようとしているところに、伯父が手を伸ばし制止する。そして、俺に再び顔を向けて話を続ける。 「勇悟君、君の気持ちも分かる。だが、そこまで気負いする事はない。もし両親が本当に君の事を負担に思っているなら今の君に理解を示してくれるか? そばで支えてくれているか? それに、君に提案があって、今日ここに来てもらったんだ」  そう言いつつ、伯父は一冊のパンフレットを差し出す。そのパンフレットを受け取り、内容を軽く確認する。 「……就労移行支援?」 「簡単に言うと、障害を抱えた者が就業訓練を受ける事だよ。最近出来た福祉事業だが、障害の重さ、種類、そして種族関係なく働くために必要な知識と能力を身に付けつつ、就活のサポートにも回ってくれる所だ。そこなら、勇悟君に合った場所を見つけられると思うが……どうする?」 「種族関係なく……って事は人間も、居るって事ですか?」 「そうなるね」  その答えを聞いて躊躇った。また冷たい人間と一緒に居る時間が出来てしまうって事にもなる。もちろん、社会に出るなら必然と人間と関わる事になる。それは分かっているが、まだあの時の冷たさを拭えずにいた。伯父もそれを少なからず知っているはず。 「まだ気持ちに整理はついていないだろうし、すぐに結論を出す必要はない。でも立ち止まっていられないなら、これも検討してみてくれ」  伯父は言いたい事を言い終えたのか、食事に手を付ける。そこからは伯父は俺に話を振る事はなかった。だが、俺の意識は食事を終えるまで伯父に、そして伯父から手渡されたパンフレットにずっと向いていた。

 食事を終えて帰り道。伯父夫婦と別れて、家に帰ってから改めてパンフレットを見る。俺は再就職するなら自分に合った環境がある場で働きたいと漠然ながら考えていた。今抱えている障害に対する理解、人間に対する恐怖心。その問題を解决出来るような所で働きたい。俺だけでそんな理想的な場所を見つけるのにも限界がある。それに伯父に言われた通り、俺が今やっている事が裏目になるかもしれない。それこそ、両親に負担がかかるかもしれない。 「親父、おふくろ」 「どうした?」  両親の目を真っ直ぐ見て、決意を固めて言葉にする。 「俺、就労移行支援を受けてみようと思う」  このまま立ち止まっていられない。俺に出来る事をしてみたい。いつか人間を信じられる未来を信じて。 400字詰め原稿用紙10枚